北の歴史ものがたり

北の歴史ものがたり

北海道の歴史は、そこに住む人びとの歴史といえます。北海道の先住民族であるアイヌ民族と和人との交易、対立の歴史。そして明治維新後の北海道開拓使時代を経て、北海道の歴史は大きく変化しました。北海道は、アイヌ民族の伝統文化と共に、東北地方や北陸地方など日本各地の文化とが織り交ざり発展を遂げた日本でも唯一無二の土地といえます。その歴史の産物が今日まで守られ、発展、改良し受け継がれており、地名、史跡、芸能、風俗など多くの面で垣間見ることができます。

先史時代

北海道に人類が住み始めたのは約3万数千年前とされ、シベリア大陸や朝鮮半島、南の島々から移動してきた人びとによって、高度な旧石器文化が築かれました。

1万数千年前頃からは縄文文化が始まり、この時代の遺跡は道内のあちこちで数多く発見されています。2千年前頃になると、縄文文化が発展した続縄文文化が展開。後期にはオホーツク文化がサハリンからオホーツク海沿岸、千島列島に広がりました。

※写真提供:函館市所蔵、伊達市噴火湾文化研究所

北の縄文文化 ~自然への敬意を持ち続けた縄文人たちの精神~


〈世界的にも貴重な日本独自の文化 縄文文化〉

約1万5千年前、日本では縄文文化が始まりました。縄文人は、旧石器時代から続いていた移動生活から、土器や弓矢などの道具を使い、狩猟・漁労・採集を生活の基盤としながら、竪穴住居を建てて定住するようになりました。農耕や牧畜を選択しなかった縄文文化は、世界的にも非常に珍しい文化といえます。

現在のところ、北海道では約1万4千年前頃の土器が最古のものとなっています。


〈自然との共生を何よりも大切にする生活スタイル〉

縄文人は、自然環境と調和しながら集落を作り、気候や環境の変動を乗り越えて1万年もの長い年月、定住による生活を送っていました。

約3,000年前から2,300年前に、水稲耕作を伴う弥生文化が広がりましたが、北海道では縄文文化の特色を受け継ぐ続縄文文化が続きました。以降、アイヌ文化の時代までの北海道の暮らしは、一貫して自然との共生を大切にする「循環と再生」というスタイルだったのです。


〈今だからこそ北の縄文文化を世界遺産へ!〉

2021年7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産への登録になりました。北海道と青森県・岩手県・秋田県の北東北3県に点在する17の縄文遺跡で構成されています。北海道には 沿岸部に遺跡が所在する函館市、伊達市、洞爺湖町の他、内陸部に位置し、北海道ならではのお墓の形状が見られる千歳市の4市町に6カ所の遺跡があります。

ぜひ足を運んで、縄文人と同じ目線で周囲の景観、当時の生活を想像してみてください。

※写真提供:函館市所蔵

中空土偶 ~国の重要文化財指定、そして北海道唯一の国宝~


〈北海道が誇る函館市で出土した貴重な歴史的遺物〉

1975年、函館市南茅部地区(旧南茅部町)で農作業中の住民によって発見されました。発見から4年後の1979年には国の重要文化財に指定され、2007年には北海道唯一の国宝となりました。南茅部の「茅(カヤ)」と、中空土偶の「空(クウ)」を合わせて、「茅空(カックウ)」という愛称で親しまれ、その穏やかな表情、美しいボディライン、巧みな幾何学模様などから、「北の縄文ビーナス」として人気を集めています。


〈縄文時代後期後半の特徴が色濃く表れた国内最大級の土偶〉

高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1.745kg。中が空洞となっている中空土偶の中では、国内最大の大きさです。正面を向いた顔、左右に大きく張った肩、くびれた胴、長い両脚で均整が取れた極めて精巧で写実的な作りで、表面もよく研磨されています。配石を伴う土坑墓群に関連して埋葬された可能性が高く、当時の祭祀や呪術的な生活文化を知ることができる重要な手がかりとなっています。


〈器用な人も不器用な人も縄文人の気分で〉

この中空土偶は、道の駅機能を併せ持った博物館「函館市縄文文化交流センター」で常設展示されていますが、その他、南茅部縄文遺跡群を中心に、函館市の縄文遺跡から出土したさまざまな土器や石器などの遺物を数多く展示しています。また、ミニチュア土器づくり、カックウの顔づくり、土笛づくり、縄文ペンダントづくり、縄文編み(初級・上級コース)、組みひもアクセサリー、拓本とりが体験メニューとして楽しむことができます。

※写真提供:東京大学常呂実習施設、北見市教育委員会、網走市立郷土博物館

オホーツク文化 ~海を愛した海洋民族の暮らし~


〈オホーツク海沿岸部を中心に分布していた文化のはじまりと営み〉

オホーツク文化は5~10世紀頃にかけて、サハリン南部から北海道・南千島のオホーツク海沿岸部に展開した文化です。オホーツク文化の人びとは、海を生業の場とし、漁撈や海獣狩猟によって生活していました。海での暮らしに特化した海洋民族と考えられており、五角形・六角形をした大きな竪穴式住居を建てるなど独特の文化をもっていたことが知られています。

長らく栄えたオホーツク文化は10~12世紀頃に北海道在地の擦文文化と接触・変容し、姿を消していきました。


〈オホーツク文化とアイヌ文化の類似した特性〉

最近の研究では、オホーツク文化の人々の一部は北海道在地の人々と混血し、アイヌ民族の形成に関わったことが明らかにされつつあります。そのためか、アイヌ文化の中にはオホーツク文化からの影響を受けたと推定される特性が見られます。

オホーツク文化では、住居内にクマの頭蓋骨を祀る骨塚が設けられるなど特徴的な動物儀礼の存在が知られていますが、これはアイヌ文化のクマを崇拝する風習につながるものと考えられています。その他、埋葬様式や狩猟技術にも両者の関連性が指摘されています。


〈遠い昔、北の海辺に生きた、先人たちの営みを垣間見る〉

オホーツク文化の遺跡は、道内では枝幸町の「目梨泊遺跡」、紋別市の「オムサロ遺跡」の他、最大の遺跡である網走市の「モヨロ貝塚」があります。この遺跡の発見がきっかけとなり、それまで知られていなかった、オホーツク人と呼ばれる人々の存在が判明。道内にもオホーツク文化の存在が認められるようになったのです。

隣町の北見市常呂町にある「常呂遺跡」にもその痕跡が残されているので、是非訪れてみてはいかがでしょうか。

北海道の幕開け

江戸から明治に至るまでの松前藩政時代、道南エリアを中心に、文化や商業が著しく発展していきます。また、この頃から諸外国からの圧力がいよいよ本格化し、幕府もその攻防としてさまざまな警護体制にあたります。

その後は開国、大政奉還、明治維新などといった大きな時代の節目を迎えることになり、北海道もこの時代の流れに翻弄されることになります。

松前城 ~激動の時代に翻弄された松前藩の象徴~


〈我が国で最後に築城された日本式城郭〉

松前家初代藩主・松前慶広がこの地に築城したのは、1606年のことです。その後の火災や修築などを経て、1849年7月10日、17世藩主・松前崇広は外国船の出没に備え津軽海峡の警備強化を図るため、幕府から築城を命ぜられ、城主大名になりました。5年がかりで福山館(ふくやまだて)の修築を重ね、1854年に松前城は完成しました。当時は新しい城を造ることが全国的に禁止されていたため、松前城の築城は極めて異例なことでした。


〈海からの攻撃に備える松前城〉

松前城は本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸東南隅には三層の天守が築かれました。三の丸には海に向けて7基の砲台が置かれ、城外にも9砲台25門の大砲が配備されていたことから、海からの攻撃への備えを重視していたことが分かります。城を持つということは、松前藩にとっては名誉なことでしたが、その築城費15万両は後の藩財政にとって重い負担となりました。


〈天守内部は資料館に当時の町並み、藩政時代の鎧や衣服などが展示〉

松前城は1941年に国宝に指定され、戊辰の役や開拓使の取り壊し、太平洋戦争にもかろうじて残った松前福山城天守閣でしたが、1949年6月5日未明に松前町役場から出火した飛び火により焼失してしまいます。現在の天守閣は、町民の切なる願いと、全国からの善意により1961年に再建されたものです。現存する本丸御門は、国の重要文化財に指定されています。

※写真提供:江差町教育委員会所蔵

江差の地に繁栄をもたらした北前船


〈幕末の瀬戸内海と日本海をめぐる回船、北前船〉

北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて大坂を起点に、瀬戸内海から日本海を経て松前の国を目指して運航した買積船の呼称です。大坂や堺との商取引が多かった江差は、江戸時代から明治初期までの間、ヒノキアスナロの産地、ニシン漁業の基地、そして北海道を代表する商業港として大いに繁栄しました。その賑わいぶりは「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどでした。


〈華やかな上方文化が流入したことで開花していった江差文化〉

松前藩政時代から明治に至るまでの江差は、北前船による大坂・堺との商取引が盛んに行われていたことから、商業、産業の町として繁栄を極めました。最盛期には、多くの北前船船主や豪商が住みはじめ、また、文人墨客の来遊も多く、街は活気に溢れていきました。

北前船の往来によって、上方文化の流れを汲む江差文化が生まれ育ち、江差から北海道文化が開花したと言っても過言ではありません。



※写真提供:北海道開拓の村

鰊御殿 ~ニシン漁全盛時代を偲ばせる豪奢な番屋~


〈ニシン漁の繁栄ぶりが木組みやデザインに残された豪壮な番屋〉

明治から大正にかけて、「一起こし千両万両」といわれた、ニシン漁の全盛時代が訪れます。日本海側沿岸の各地に建築されたニシン番屋には、各地から漁場の労働者であるヤン衆が集まり、100人以上が寝泊まりしました。この時代の網元は莫大な利益を得たことで、日数や費用に糸目をつけずに、本州から高価な資材を運び、優れた技量を持つ大工を使って「鰊(にしん)御殿」と呼ばれる立派な番屋を建築しました。昭和初期からの衰退とともに荒れていきましたが、地元から保存の声が上がったことで、いくつかの豪壮な建物が残され、当時のニシン漁の繁栄ぶりを伝えています。


〈宿泊できる鰊御殿で当時の親方の豪華な生活ぶりを体感〉

現在、高級旅館として利用されている銀鱗荘は、1939年に余市町から小樽市に移築されたものです。建てたのは越後出身の初代・猪俣安之丞で、一介の漁場手伝いから、余市で鰊漁場経営の他に海産物商、廻船問屋、金貸業などを営む富豪になった人物です。建物の設計施工には、越後の宮大工が当たり、高価な建築資材を惜しげもなく用いるとともに、随所にさまざまな工夫が凝らされています。


〈明治時代の原型を留めた、最大規模を誇る番屋〉

小樽市鰊御殿は、1897年に積丹地方で有数の漁場を経営し、「鰊大尽」と謳われた田中福松が元々、古宇郡泊村に建てたものです。1958年に現在地に移築復元。小樽市に寄贈され、1960年に北海道の民家では初めて「北海道有形文化財鰊漁場建築」として、文化財に指定されました。ニシン漁やニシン加工に使われた道具や、番屋で暮らした人々の生活用具や写真などを展示しています。また、当時の作業スタイルを体験することもできます。

※写真提供:函館市公式観光情報サイト「はこぶら」、はこだてフィルムコミッション 

箱館開港 ~日米和親条約の締結で、本格的な国際港へ成長~


〈ペリー来航をきっかけに本格的な国際貿易港として発展を遂げた箱館港〉

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、「通商」「漂流民の救助・保護」「避難港の確保と石炭・薪水などの補給」を要求する国書を提出。翌1854年、ペリーと幕府との間でどの港を開港するかについて話し合いが持たれた結果、下田と箱館の2港が選抜され、日米和親条約が締結されました。翌1855年に箱館は避難港として開港しました。その後、1858年に政府とアメリカとの間で日米修好通商条約を締結。1859年、箱館は横浜、長崎と共に国際貿易港として開港しました。

幕府は同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと次々に和親条約を締結し、世界に門戸を開くことになりました。


〈開国によって、さまざまな異文化が交差。港の発展街並みの礎へ〉

函館港は、函館山麓から西方へ湾曲した海岸線に位置します。来航したペリーは、船上から見た絶景に驚嘆したほど、天然の良港だったようです。

鎖国を解いて開港してからは異国文化が移入し、今日の函館西部地区に見られる美しい街並みを形成するに至りました。

港内を行き交う船舶は時代の流れとともに、イカ釣り漁船、貨物船、フェリーなどへと変わりましたが、響き渡る汽笛の音は、港町ならではの風情を醸し出しています。

※写真提供:市立函館博物館、函館市公式観光情報サイト「はこぶら」、はこだてフィルムコミッション

箱館戦争 ~戊辰戦争最後の戦い~


〈大政奉還によって混沌を極めた幕末の動乱〉

1867年、15代将軍・徳川慶喜は将軍職を辞して政権を朝廷に返還したことで、江戸幕府に終止符が打たれます。

明治新政権が樹立された1868年、旧幕府軍海軍副総裁・榎本武揚が率いる旧幕府脱走軍艦隊が品川沖を脱走し、仙台で新撰組を含む旧幕府陸軍と合流後、蝦夷地の鷲ノ木(現茅部郡森町)へ上陸。戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争が勃発しました。


〈忠義を尽くした志士たちの魂に祈りを込めて〉

箱館戦争の舞台となった函館。市内には箱館戦争にまつわる跡地や地碑、慰霊碑などが数多く点在しています。旧幕府軍の本拠地となった五稜郭をはじめ、銃弾によって命を落とした土方歳三の最期の地碑、旧幕府軍の霊が祀られた碧血碑、土方と新撰組隊士の供養碑のある称名寺、新撰組屯所跡地などがあり、幕末の激動の舞台となった箱館戦争ゆかりの地を巡ることができます。


〈主を失ったずしりと重い鉛色の遺品と資料〉

市内には土方歳三函館記念館、市立函館博物館など、資料や絵図、刀や銃といった武器類、羽織といった幕末に活躍した人々の貴重な資料や収蔵品を展示した資料館があり、箱館戦争の歴史についてより深く学ぶことができます。資料や収蔵品を眺めながら幕末期に思いを馳せることができます。

また、毎年5月中旬には箱館五稜郭祭が行われ、碑前祭、献花、土方歳三コンテスト全国大会、維新行列パレードなど、五稜郭の歴史を後世に伝えています。

※写真提供:北海道立文書館、松浦武四郎記念館蔵 

蝦夷地から北海道へ ~北海道の近代化への序章~


〈太政官布告によって「北海道」へ改称〉

かつて北海道は「蝦夷島」「蝦夷地」などと呼ばれていました。箱館戦争終結後の1869年7月、明治新政府は開拓使を設置しました。翌8月、太政官布告によって、蝦夷地は「北海道」へと改称されました。

明治新政府は、全国各地からの移民により開発することによって、資源の少ない日本を大きく変えようとしましたが、財政事情から政府のみでの蝦夷地経営は難しく、諸藩等へ分領して支配させました。


〈「北海道」命名に至るまでの経緯〉

幕末の探検家・松浦武四郎が名付け親とされています。松浦は道名に関する意見書で、日高見・北加伊・海北・海島・東北・千島の6つの候補名を挙げました。このうち、北加伊に、律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)に類した「北海道」の字をあてて採用されました。

開拓の歴史

明治新政府の誕生によって、国策が一変。欧米諸国に追いつけ追い越せ、時代は近代化に向けて動き出します。

没落士族の救済、北方警備、資源開発などの動機から、新政府は開拓使を設置し、北海道の開拓を本格的に推進。本拠地を函館から札幌へと移し、集団移住者や屯田兵、海外から専門家を招いたことで、農業、加工業、建築、製鉄などが発達しました。

同時に、開拓技術者の養成、西洋式農業の導入によって、さらなる北海道の近代化を飛躍させます。


※写真提供:琴似屯田子孫会

屯田兵 ~未開拓の地に夢を馳せた士族たち~


〈生き延びるため、剣を捨て、鍬を手にした武士たち〉

明治維新後、旧幕府側の武士たちは、禄を奪われ窮乏しました。屯田兵とは、そのような士族の救済と北海道の開拓、北方警備を担うために、明治政府によって北海道各地に組織的・計画的に移住・配備された人たちのことを指します。制度創設当初は、士族に限定されていましたが、1890年からは族籍に関係なく、平民からも募集するようになりました。この時期を境とすれば、前期は士族で、後期は平民がほとんどでした。


〈兵士でありながら未墾の地を耕す屯田兵の義務〉

1875年、琴似屯田を皮切りに、道内37ヵ所に屯田兵とその家族が入植します。支度料や旅費の支給、家具や農具も揃えられていたので、一般の開拓者よりも有利な条件でした。しかし兵士である以上、厳しい軍律に縛られた生活でした。日常的には家族とともに開墾作業に従事していましたが、武術・兵事の訓練に従うこと、各種警備の任に当たること、有事に際して戦列に加わるといった義務を果たさなければならなかったのです。


〈不慣れな土地で支え合い困難を乗り越えてきた屯田兵の暮らし〉

鬱蒼と生い茂る薄暗い原始林の中、想像を絶する北海道の冬の厳しい寒さを耐えてきた簡素な屯田兵の住居、米国風バルーンフレーム様式の中隊本部、火薬庫などが道内の至るところに現存されています。互助精神で支え合い、たくましく生きた屯田兵の暮らしぶりや、さまざまな農具、生活用品などが展示され、当時のつつましい生活、従軍、開拓の苦労を窺い知ることができます。

晩成社 ~原野を切り拓き、農業王国の礎を築いた立役者~


〈十勝開拓の先駆者が直面した、過酷な開墾生活の実態〉

1883年に、現在の帯広市へ入植した依田勉三が率いる晩成社によって、十勝内陸部の本格的な開拓が始まります。原生林を切り拓き、鍬を下ろし、米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培しました。しかし度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたものでした。

後に晩成社当縁牧場を開設、半地下式のサイロを作り、牛肉やバター製造に取り組み、函館や東京で販売するなど、時代を先取りした経営を展開します。


〈数多くの失敗によって発展していった十勝地方の農産業〉

晩成社の事業の多くは失敗に終わっていますが、1900年頃から移住者が増え、十勝地方の開拓が進んでいきました。大樹町には依田勉三の住居が復元されていますが、そこから彼の質素な生活ぶりを窺うことができます。

十勝の開拓は、北海道に多く見られた屯田兵が設置されず、晩成社をはじめ、富山、岐阜など本州からの民間の開拓移民によって進められていったのです。


〈晩成社が製造したバター「マルセイバタ」に敬意を表して〉

北海道の代表的なお菓子メーカー・六花亭の本社は、そんな帯広市にあります。銘菓のひとつ「マルセイバターサンド」の名前の由来は、依田勉三が率いた晩成社が十勝で最初期に製造を開始したバターの商標「マルセイバタ」にちなんだものです。

晩成社の「成」の字を丸で囲んで、「マルセイ」です。パッケージも、そのラベルを模したデザインとなっています。

※写真提供:北海道大学付属図書館所蔵、帯広市商工観光部観光課

ばんえい競馬 ~北海道開拓の一役を担った農耕馬の競走~


〈開拓の重要な労働力であった農耕馬〉

北海道の馬の歴史は古く、明治期には農耕など開拓の労働力として人びとと苦労をともにしてきました。ばんえい競馬は明治時代、北海道の農民の厳しい暮らしの中から生まれたものです。当初、馬の価値や力を試すための競走として始まり、2頭の馬を互いに引っ張らせ、競いあわせていました。

ソリに過重をかけて引かせる方法は、明治の終わりごろから始まり、農耕馬の祭典として定着していきました。


〈開拓時代の面影を残した、迫力あるレースへと変貌〉

農耕馬の力を試したお祭りばん馬は、後に「ばんえい競馬」として発展していきます。体重1tを超える馬が重りを乗せた鉄ソリを引いて直線コースでパワーとスピードを競うレースです。現在は帯広市でのみ開催しており、昨今では世界でたったひとつのばんえい競馬として、絶大な人気を誇っています。北海道開拓時代の農耕馬の祭典が現代のレースへと受け継がれ、今では北海道遺産として人々に感動を与えています。

※写真提供:北海道大学付属図書館所蔵、公益財団法人札幌市公園緑化協会

お雇い外国人 ~著しく遅れていた北海道開拓のめざましい発展~


〈外国人がもたらした世界最先端の知識と技術〉

開拓長官・黒田清隆は、外国人雇用と機械購入を目的に渡米、連邦政府農務局長・ホーレス・ケプロンと面会し、開拓使顧問に迎える契約を結びました。ケプロンはアメリカから優秀な人材を呼び寄せ、農業、工業、鉱業、医学など、さまざまな分野に送り込みました。

お雇い外国人は、12年間で78人にのぼります。彼らが北海道へもたらした知識と技術は、当時の世界最先端であり、彼らの活躍なくして今日の北海道はありえなかったのです。


〈ケプロンの刺客が北海道の酪農業に新風を吹き込む〉

1873年、エドウィン・ダンが牛とめん羊を船に積んで来日します。北海道に酪農を根づかせるため、ケプロンに招かれたのです。ダンは真駒内に牧場を開き、優良な乳牛を仕入れ、飼育管理や品種改良を指導しました。また、西洋式農機具の使い方を教え、バター、チーズ、ハム、ソーセージなどの製造も行いました。

この真駒内の牧場は、今日の酪農を築いた多くのリーダーを育成したことから、北海道酪農のメッカと呼ばれています。


〈北海道を代表する特産物を根付かせたルーツ的存在〉

農業分野で特に重要な役割を果たしたのは、札幌農学校で農学と農業実習を受け持ったウィリアム・ベン・ブルックスです。当時の農学校では、異国の種子を北海道の土壌に根づかせる実験が重ねられていました。

後に北海道の特産物となる多くの作物や品種は、ブルックスなど札幌農学校の教師たちによって生み出されたのです。栽培法だけではなく、土地改良や馬耕の指導、農場建設に携わったほか、近代的な農業経営も教えました。

※写真提供:「明治・大正期の北海道(写真編)」からの転載、学校法人北星学園

開拓期の教育者 ~多くの優秀な卒業生を輩出した教育者たち~


〈北海道の開拓に加え幅広い知見を備えた人材の育成を目指して〉

北海道の開拓期の教育者として知られているのが、“Boys, be ambitious”「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名な北海道開拓の父・ウィリアム・スミス・クラーク博士です。クラーク博士は、現在の北海道大学の前身、札幌農学校の初代教頭を務め、農学校の1期生、2期生からは、佐藤昌介、新渡戸稲造、内村鑑三など、当時の日本を牽引する人材が巣立っていきました。クラーク博士の滞在は、1年にも満たない短い期間でしたが、今なお脈々とその精神が受け継がれ、さっぽろ羊ケ丘展望台には、北海道の開拓のシンボル的存在であるクラーク博士像が建立されています。


〈本格的な女子教育の先駆けとなった婦人宣教師〉

宣教師として来日していたサラ・C・スミスは東京で体調を崩し、故郷と気候の似ている北海道にやって来ました。北海道尋常師範学校の英語教師に採用されると、昼間は学校で教鞭をとり、夜間は婦人たちに英語や料理を教えていました。

その女子教育への熱意が道庁に認められ、1887年に現在の北星大学の前身となるスミス塾を開設します。帰国するまでの44年間、彼女は札幌の女子教育の発展に大きく貢献しました。

※写真提供:札幌農学校第二農場

北海道大学 ~北海道農法の構築に多大な貢献を果たした本拠地~


〈クラークの構想により北海道の開拓と近代化に拍車がかかる〉

後に第2代内閣総理大臣となる黒田清隆の「開拓使10年計画」によって、北海道の開拓を担う人材の育成に、アメリカ・マサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラークを教頭に迎え、1876年に札幌農学校(現北海道大学)が設置されます。クラークの指導によって、開校とほぼ同時に広大な農場を開き、北海道への移住者に近代的な大規模有畜農業を採り入れる拠点を作りました。


〈約177万㎡にも及ぶ広大な敷地内に点在する当時の面影〉

北海道大学構内にある札幌農学校第二農場は、クラークの構想によって、一戸の酪農家をイメージした畜舎と関連施設を並べ、北海道最初の畜産経営の実践農場として開設されたものです。北海道全域に畜産を広めた日本畜産の一つの発祥地としての価値と、わが国最古の希有な洋式農業建築としての価値が認められ、国の重要文化財にも指定されています。

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