1万年以上続いた北海道の縄文〜続縄文時代こそSDGsの先駆け!?

1万年以上続いた北海道の縄文〜続縄文時代こそSDGsの先駆け!?

※タイトル画像:北黄金貝塚から内浦湾をのぞむ 出典:JOMON ARCHIVES(伊達市教育委員会)


縄文時代は豊かな自然環境と共生し、大きな争いもなく人々が平和に暮らした、今注目の「SDGs」を1万5000年以上前に実践していた時代でした。さらに北海道では、本州以南で3000年ほど前に水稲耕作を行う弥生文化が始まった後も、縄文文化の伝統を受け継ぐ「続縄文時代」が7世紀頃まで続き、独自の文化を形成していきます。縄文文化の発生から1万年以上にわたって育まれた北海道の縄文〜続縄文時代とは、一体どのような時代だったのか紐解いてみましょう。

豊かな自然と共生した縄文時代

  • 大規模な拠点集落だった大船遺跡 出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会)

紀元前1万3000年頃に地球の氷河期が終わると、日本列島には現代と同じような自然環境が現れました。北海道でもブナやクリなどの実りをもたらす森林資源の広がりや、暖流と寒流が交わる豊かな漁場が生まれ、それまで獲物を求めて移住生活を送っていた人々が、食料を安定的に確保できるようになったことから定住生活を始めるようになります。こうして今から約1万5千年前には、土器の使用を伴う縄文時代が始まり、その後1万年以上にわたって続いたとされています。


北海道、青森県、岩手県、秋田県にまたがる17の縄文遺跡で構成された「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、豊かな自然環境のなかで採集、漁撈(ぎょろう)、狩猟を行いながら定住生活を営み、土偶や環状列石、周堤墓などに見られる精緻で複雑な精神文化を今に伝える世界にも稀な遺跡群として、2021年7月にユネスコ世界文化遺産に登録されました。北海道からは、垣ノ島遺跡(函館市)、北黄金貝塚(伊達市)、大船遺跡(函館市)、入江貝塚(洞爺湖町)、キウス周堤墓群(千歳市)、高砂貝塚(洞爺湖町)の6つの遺跡がその構成資産として登録されているほか、これらと一体となって活用する関連資産に鷲ノ木遺跡(森町)があります。

縄文時代の人口は東高西低!?

縄文遺跡は日本全体で見ると、西日本より東日本に多く分布しています。なかでも北海道南西部を含む東北地方では、縄文時代晩期になると1キロ平米あたりの人口密度で関東の5倍以上もの人々が暮らしていたことがわかっています。北海道は寒くて暮らしにくいというイメージがあるかもしれませんが、食料調達の観点からすると縄文人にとっては暮らしやすい環境だったのではないでしょうか。実際、北海道南部の内浦湾沿いの遺跡からは、発達した漁労具が多く発掘されていて、漁が盛んに行われていたと考えられています。

※画像:入江貝塚から出土した釣針 出典:JOMON ARCHIVES(洞爺湖町教育委員会)

縄文時代の人口は東高西低!?

大規模集落跡や共同墓地が豊かさの証

  • キウス周堤墓群の大規模共同墓地 出典:JOMON ARCHIVES(千歳市教育委員会)

北海道の縄文時代は、どういう時代だったのでしょう。農耕すら行われていなかったことから、現代に生きる私たちからすると、文明とは程遠い未開な印象を持つかもしれません。しかし、祖先の霊を祀ったとされる大規模な環状列石や周堤墓が、北海道の縄文遺跡から続々と発掘されていることから考えると、食料の調達のみに煩わされる貧しい社会ではなかったことがうかがえます。祈りという精神的な行為を行うための場所を作る、大規模な土木工事にマンパワーを割けるだけの余力のある豊かな社会が形成されていたのではないでしょうか。例えば、9基の周堤墓が群集する千歳市のキウス周堤墓群で最大のものは、外径83メートル、高低差4.7メートルもある円形の竪穴式共同墓地ですが、この規模の墓を作るためには、50人で作業をしたとしても2ヵ月以上かかる大土木工事だったようです。

縄文時代の社会は、上下関係のない共同体

縄文時代の巨大な土木遺跡に共通するのは、それらが祖先の霊を祀る共同の聖域=共同墓地であったということです。のちの古墳時代などに見られる巨大な首長墓と違い、特定の地位や権力のある人の墓ではなく、集落に住むみんなのための墓であったところが縄文文化の特色です。縄文時代の人々は、このような聖域に集まって祈りを捧げるという行為を通じて、共同体意識を高めていったのでしょう。さらに洞爺湖町の入江貝塚では、筋委縮症に罹患して寝たきりだったと考えられる成人の人骨が丁寧に埋葬されていました。弱い立場の人も見捨てることなく、助け合って生きる。こういう社会のあり方が、1万年以上続いた縄文時代の持続可能性につながっているのかもしれませんね。

※画像:垣ノ島遺跡の副葬品として発見された幼児の足形を付けた粘土版 出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会)

縄文時代の社会は、上下関係のない共同体

手土産を持って他の集落と交流!?

  • カリンバ遺跡で出土した漆塗りの櫛 出典:恵庭市郷土資料館

縄文時代には定住生活が始まりましたが、縄文人は自分たちの住む集落(ムラ)にこもって暮らしていたわけではありません。当時の主な交通手段は、大きな木の幹をくり抜いて作った丸木舟。縄文人は丸木舟を自由自在に操り、自分たちの地域で採れる産物を手土産に持って、様々な地域の集落と交流をしていました。北海道の縄文人が携えていったのは、旧石器時代からナイフの代わりに用いられてきた黒曜石や、狩りに使う石鏃を柄に固定する接着剤の役割を果たした天然アスファルト、現代の工芸にも用いられる漆の赤色顔料など。これら北海道原産とされるモノが、東北地方をはじめ日本各地で見つかっているほか、装身具として珍重された緑色に輝く翡翠などは、新潟県産のものが北海道の遺跡から見つかっています。

精神世界を通じてつながっていた縄文人

交流を通じて得たのは、実用的なモノだけではありませんでした。土偶や石棒、イノシシの骨といった縄文時代の祭祀と深く関わる遺物も北海道から九州まで日本各地で出土しています。興味深いのは、春の出産期に捕獲した子イノシシを秋から冬まで飼育後、食用にして残りの骨を焼く祭りが本州の縄文社会では広く行われていましたが、本来なら北海道には生息しないイノシシの骨が北海道の縄文遺跡からも見つかっていることです。これは異なる地域間であっても、縄文人たちが精神的につながり、ある種の価値を共有していた証となるかもしれません。ちなみに、本州でイノシシ祭りの伝統が途絶えたのち、北海道ではイノシシを熊に変えた熊祭りという儀式が、アイヌ民族の間で受け継がれたと考える研究者もいます。

※画像:入江貝塚で出土したイノシシの牙製装身具 出典:JOMON ARCHIVES(洞爺湖町教育委員会)

精神世界を通じてつながっていた縄文人

道南と道東で異なる縄文土器

  • サイベ沢遺跡出土の円筒上層a式土器 出典:市立函館博物館
  • 常呂川河口遺跡出土の北筒式トコロ6類土器 出典:北見市教育委員会

縄文文化を最も特徴づける遺物といえば縄文土器です。北海道には縄文時代の遺跡が約7千あるといわれていますが、それぞれの遺跡で発掘される縄文土器を観察してみると、函館を中心とする道南エリアとオホーツク海沿岸や釧路周辺を中心とする道東エリアでは、その文様や意匠などに違いが見られ、それぞれ異なる歩みをしていたことがわかります。


道南は津軽海峡を隔てた本州の東北地方と行き来が盛んだったため、基本的に東北との強いつながりが見られます。例えば、函館市の大船遺跡で発掘された円筒式土器は、青森県の三内丸山遺跡で発掘された円筒式土器とほぼ同じ形状であるのに対し、道東で発掘される円筒式土器は、道南〜北東北の影響を受けつつも独自性があることが見て取れます。

個性が光る幣舞式土器

縄文時代も晩期になると、道東の土器はさらに独自性を強め、道南とは異なる進化を遂げていきます。なかでも釧路の幣舞(ぬさまい)遺跡で発掘された幣舞式土器には、ユニークな造形を持つものが多く、縄文土器ファンの目を楽しませてくれます。

※画像:常呂川河口遺跡出土の幣舞式土器(人面文の土器) 出典:北見市教育委員会

個性が光る幣舞式土器

弥生文化を受け入れなかった北海道の続縄文時代

  • 続縄文時代の遺物 出典:北見市教育委員会、撮影:佐藤 雅彦

紀元前300年頃になると、日本列島では西側から水稲耕作技術や青銅器、鉄器などの金属器が伝わり、弥生時代が始まりました。弥生文化は今から2500年ほど前までには青森県にまで到達しますが、北海道の縄文人は米作りを受け入れることはしませんでした。北海道の気候は稲作を行うには寒冷だったこともその一因といわれていますが、食糧事情はもともと豊かで、鉄器の伝播により狩猟、漁撈、採集技術がさらに進歩したことで、あえて米作りを行う必要性がなかったからともいわれています。


こうして北海道の人々は、縄文時代からの暮らしを発展させながら、弥生文化の本州の人々と交易をする道を選びました。本州の弥生時代、古墳時代と並行する北海道のこの時代の文化を「続縄文文化」と呼んでいます。続縄文時代の遺跡から出土する遺物で特徴的なのは、鉄器や管玉、ガラス玉、南西諸島に生息するイモガイで作った貝輪など、本州の弥生社会で権威を示すような品々が多数見つかっていることです。こうした品々には高い対価が求められたはずですが、続縄文人は北海道でしか獲れない陸獣や海獣の毛皮と引き換えに、弥生の宝を手に入れていたのではないかと考えられています。

独自の道を歩み始めた北海道

  • オホーツク文化の遺跡から発掘された牙製クマ像 出典:網走市立郷土博物館

交易の民となった北海道の続縄文人は、4世紀に入ると寒冷化に伴い稲作ができなくなった東北北部への移入を始め、交易拠点を仙台平野から新潟平野に至るラインまで南下させた時期がありました。また5世紀頃には、北方から海洋民族・オホーツク人の流入があったり、本州の近畿地方に誕生したヤマト王権の勢力拡大とともに、居住地をめぐるせめぎ合いも起こったようですが、文化の交流や交易は盛んに行われています。続縄文時代を通じ、北海道の民は交易民としての独自性を強め、のちの先住民族としてのアイヌ文化につながっていったと考えられています。


北海道で見学できる縄文〜続縄文時代の遺跡には、大自然とともに生き、その恵みに感謝しながら、皆で助け合って暮らした縄文人たちのスピリットが今も息づいています。「SDGs」という言葉が注目を集め、持続可能な社会の実現が叫ばれる現代において、これらの遺跡から得られる学びやヒントは数多くあるでしょう。北海道独自の歴史・文化にふれることができる縄文〜続縄文時代の遺跡へ、ぜひ足を運んでみませんか。

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