「ほっかいどう温泉遺産」構想
「ほっかいどう温泉遺産」構想とは、道内の温泉に関係する歴史や文化を伝えるものの中から、次世代へ継承し、温泉地の価値をさらに高めるため活用できるものを認定しようという考え方です。
ほっかいどう温泉の歴史
現在の北海道の温泉地の大半は昭和・平成の温泉開発によって誕生しましたが、道南のように松前藩が積極的に活用していたもの、幕府の北方探索によってアイヌが利用していたと分かるものも多く存在します。また大正2年の「北海道鉱泉誌」には約60カ所、昭和7年の「北海道温泉案内」には100カ所を超える温泉が掲載されていて、そのうち6割ほどの温泉地が困難な時代を乗り越えて今に至ります。
それらの温泉にまつわるストーリーを旅行者が感じ、温泉で「時の流れにも浸かる」ことができれば、施設の設え・料理・温泉そのものの質といった従来の温泉地での楽しみ方にもう一つのエッセンスを加えることができるはずです。
その候補の中から2つを紹介しましょう。
①「北海道三霊泉」の碑
昭和5年5月25日、当時の北海道三大新聞のひとつである小樽新聞に道内温泉地の人気投票を促す記事が掲載されました。同紙夕刊に刷込みの用紙とハガキによる投票で、道内の各温泉地が地域をあげて激しい投票合戦を繰り広げました。
- 旧小樽新聞社(北海道開拓の森)
- 投票を募る当時の新聞記事(北海道立図書館所蔵資料)
わずか40日間の投票期間ながら投票総数は400万票近くになり、その上位3位である「洞爺湖温泉」「昆布温泉」「根崎温泉(現在の函館市湯川3丁目エリア)」が、投票終了後の審議会を経て「北海道三霊泉」に認定。小樽新聞社により3温泉地に記念碑が建てられました。
- 夕刊刷込みの投票用紙(北海道立図書館所蔵資料)
- 投票期間終了直前の盛り上がりを伝える記事(北海道立図書館所蔵資料)
一般にはそれほど知られていませんが、その記念碑は3カ所とも現存しています。
- ・洞爺湖温泉(約53.5万票で1位):温泉街最初の旅館が建っていた場所の近く
- ・昆布温泉(約48万票で2位):昆布温泉公園近くの敷地内(昆布温泉駅から移転)
- ・根崎温泉(約39.5万票で3位):函館市熱帯植物園の敷地内
得票数の多さを見るだけでも、ほぼ新聞しか情報源がなかった当時、この企画が社会にどれほど大きな影響を与えたかを推察できます。その熱狂ぶりを静かに伝えるこの記念碑は次世代に遺すに値します。
②神威脇温泉と少彦名神社
神威脇温泉は奥尻島内で営業している唯一の温泉です。
昭和27年頃、温泉が湧き出ている場所に野天風呂が作られたのが施設としての始まりで、その後町による温泉掘削を経て昭和53年に「神威脇温泉保養所」が完成しました。それ以来、共同浴場としての趣ある建物・男女ともに2階浴室から漁港を望むロケーション・かけ流しの良質なお湯、さらに島外から訪問するハードルの高さも含め、多くの温泉ファンを魅了し続けています。
- 2階浴室から漁港を望む
- 神威脇温泉の温泉源
奥尻島に甚大な被害を与えた平成5年の北海道南西沖地震。神威脇温泉は建物は残ったものの、直後に温泉の湧出が止まってしまいました。再び温泉が湧き出るようになったのはそれから3ヶ月後、営業再開できたのは地震から10ヶ月後のこと。地震による危機を乗り越えて営業している温泉なのです。
そして、この地区にある小さな神社が少彦名神社です。
名前の通り祭神は少彦名命。日本三古湯として知られる愛媛県の道後温泉の歴史にも登場する医薬の神・温泉の神で、道内でも多くの温泉神社で祀られています。 興味深いのはこの神社がもともと温泉源の近くの海沿いにあったことと、戦後に国後島からの引揚者がこの地区に入植した時、つまり神威脇温泉の最初の野天風呂ができる前に既に神社があったことです。
当時の神威脇地区は船でしか行くことができない離島の中の陸の孤島でしたが、そのような厳しい環境の地域に訪れた先人がどんな思いでそこに神社を建立したのか。そして、薬や温泉の神であると同時に酒作りの神でもある少彦名命が祀られたこの土地に温泉施設ができ、さらに数十年後にワイナリーができたことも併せて考えると、さらに深いストーリーを思い描くことができます。
地震を乗り越えた温泉施設とその地を見守る小さな温泉神社。これらの歴史は神威脇温泉の価値を高めるに違いありません。
- 少彦名神社
- 島に広がるぶどう畑