手作りの
アイヌ料理で
おもてなし。

酋長の家

梅澤 悦子さん

父が阿寒コタンの酋長だったから「酋長の家」に。

「酋長の家」という名前についてよく聞かれるのですが、私の父の志富イサネが、阿寒のアイヌコタンの酋長だったことが由来です。阿寒で民芸店を営んでいた父が、知床にもお店を出すことになって。それが昭和41年のことです。ウトロ漁港の帽子岩のすぐ近くに建てた店は父の手作りで、隙間だらけで屋根から星が見えるような掘っ立て小屋でした。私たちは阿寒にいて、夏の観光シーズンだけここに来て手伝っていました。海の近くでエビをとったり、魚が寄ってきたり、山菜も豊富なウトロはおいしい物の宝庫で、人も親切なので楽しい所でした。

昭和45年頃に店舗と家を建てて、斜里に落ち着くようになりました。その頃は、加藤登紀子さんの「知床旅情」の大ヒットで、日本中が知床ブームだったんです。大勢の若者や観光客がいらっしゃって、テレビ番組にも取り上げられて、「酋長の家」は人気スポットになりました。

昭和47年には2階建ての建物にして、母の念願だった民宿をスタートさせました。男女別の相部屋が2部屋だけの素泊まりの宿でしたが、夏には若者たちでいっぱいになるほど。その後3階建ての建物を増築して喫茶店も始め、平成4年には新たな3階建ての建物を増築しました。平成14年には喫茶店を閉めて、レストラン(昼食のみ)にし、現在の民芸店・民宿の営業になりました。

民宿でアイヌ料理を出すことになった、あの一言。

宿では、最初から今のようなアイヌ料理をお出ししていたわけではないんです。どこでも出てくるようなごく普通のメニューで、館内もアイヌらしさがないしつらえでした。ところがある日、泊まりに来た学生さんに、ちょっとがっかりした顔で「アイヌの宿だと聞いてきたのに、全然アイヌらしくないんですね」と言われてしまって。聞くと、北海道大学大学院の小野有五先生の教え子の大学院生でした。小野先生は、世界自然遺産になるときに「アイヌ民族なくして世界自然遺産は語れない」と後押ししてくださった方です。先生のおかげで先住民族ツアーもできました。

彼女の言葉に、アイヌとして目が覚めたような気がしました。あらためて見てみたら、全然「酋長の家」らしくない。

それからは、館内の装飾にアイヌ文様や工芸品を飾ったり、実際に使っていた道具や楽器などを展示したり、あちこちにアイヌ民族らしさを出すようにしました。私はハーブが大好きで、タイムやレモンバームなどの西洋ハーブを育てていたんですが、自分の原点に戻ってアイヌハーブに興味を持ち、民宿でお茶と料理を出すようになりました。

お客様にお出しするメニューにも、少しずつアイヌ料理を取り入れていきました。母からは詳しい作り方を教えてもらっていなかったので、お友達に作り方を教えてもらいました。そのときに「シケペ(ミカン科のキハダの木の実)」を知り、「ラタ(野草の煮物や和え物)」や「イモシト(じゃがいもで作る保存食)」も久しぶりに食べました。祖母も母もよく作っていたので、その味は舌が覚えていました。そこから試行錯誤を重ねて母の味に近づけていったという感じです。

昔から食べてきた手作り料理が一番のおもてなし。

普段は土産物店で、夫が作る工芸品などを販売していて、民宿の経営は息子夫婦に任せています。料理を作るのも息子の嫁です。うちの民宿では昔から料理はすべて手作りしていて、漬物も全部自家製です。メニューは伝統的なアイヌ料理をアレンジしていますが、こだわっているのは無添加ということ、そして地場産の食材を使うこと。だしも昆布とかつぶしでとっています。私たちが昔から食べてきたものを、お客様にもお召し上がりいただきたいんです。お客様には食の安全・安心に気をつけている方が多いので、とても喜ばれています。

夕食時にはお客様の席にお邪魔して、料理の説明をさせていただきます。料理は全部で11品ほどお出ししていますが、一通りすべてご説明します。そのときに、アイヌ民族や文化についてもお話ししています。知識があるとないのとでは、食べたときの感じ方も変わってくると思うからです。せっかく泊まってくれた方に少しでもアイヌのことを知っていただきたいという思いで、歌やムックリもご披露しています。

お客様には最初に「イランカラテ」と話しかけます。「こんにちは」と訳されていますが、とても深い意味があります。私の大好きなアイヌ語です。「あなたの心にそっと触れさせてください」という意味を知って、なんて素敵でやさしい言葉だろうと感激したんです。酋長だった父や母から、アイヌ語やアイヌ文化のことをもっと教えてもらえばよかった、今になって心からそう思います。

知れば知るほど、私たちのアイヌ文化は素晴らしい。

子どもの頃から、ほとんどアイヌ文化には触れずに育ちました。母は熊も彫っていて、北海道大博覧会に出展したり、温根湯温泉で店先を借りて商売したりしていましたが、私は店番を手伝うくらいで熊も彫ったことはありません。祖母の杉村キナラブックは、アイヌ文化伝承者として旭川市無形文化財にもなった人ですが、家の中ではアイヌ語はまったく話しませんでしたし、アイヌ語を教えられることもありませんでした。当時はそういう時代だったんです。祖母からは昔話を聞いて育ちました。冬になるとイテセ(花ゴザを編む)をしているそばで、昔話を聞かせてというと、やさしい声で「オレの話でいいのかあ」と話してくれたものです。なつかしい思い出です。

母はとても料理上手で、アイヌ料理もそれとは知らないまま幼い頃から食べていました。母からは料理は習いませんでしたが、刺繍は仕込まれました。針と糸、針と糸と言われて育ちましたから、楽しんでやっているうちに覚えたという感じです。ごく自然に受け継いでいけるようにしてくれたのかもしれないと、後で気がついたのですが。

知れば知るほど、アイヌ文化は素晴らしいと思うようになりました。日本人よりも、先住民族についての教育を受けた外国人のほうがアイヌ民族について詳しいと感じるので、ウポポイができることでアイヌ民族への理解が進むことに期待しています。私は、アイヌはとてもやさしい民族文化があると思っているので、みなさんにもそれを知っていただければ嬉しいです。お客様から元気をいただきながら、これからも頑張っていきたいですね。

(2019年8月)